息を切らせて夜の街を走る。
正直、今自分がどこを走っているのか分からない。
家から遠ざかっているのか近づいているのかさえも分からない。
そんなこと、どうでもいいと思えるほど私はひたすら足を動かしていた。
どうしてこんなことになってしまったのか。
その答えはおそらく、ほんの5日前に遡ったところにある。
いつもより少し遅い時間に仕事場から帰る途中、今までに聞いた事の無いような声…いや、音が聞こえた。
歩いていた足を止めた私は、ほんの少しの好奇心からその方向へと足を向けた。
覗いた路地裏。
そこには綺麗な桃色の髪に月の光を浴びて、どこか現実離れした空気を漂わせる人がいた。
体格的におそらく男の人だろう。
その人に目を奪われていて気付くのに遅れたけれど、生臭い臭いが鼻を掠めて私を現実へと引き戻した。
その人が伸ばした手の先へゆっくり視線を移す。
だらりと下がったそれは、ひとの、体。
そこに生命力は感じない。おそらくこの生臭い臭いは―――。
「あれ。見られちゃった」
この場に似つかわしくない明るい声と同時に、桃色の髪の男の人が笑顔をこちらに向ける。
ぱっと手を離し、ぴちゃりぴちゃり、かつかつかつと音を立てて近づいてくる。
逃げたいのに逃げなくちゃいけないのに足が動いてくれない。
「さて。見られちゃまずい所を見られちゃったわけだし、どうしようかな」
つうっと男の人の指先が私の頬から首へと流れるように輪郭をなぞっていく。
「君は約束を守れる子?今日、ここで見たこと、誰にも言わないって約束できる?」
にこにこと笑顔のままで問われ、こくりと小さく頷く。
「そう。良い子だね」
にこりと笑ったその人の顔を、血の臭いを早く忘れたいと思っていたのに。
あの日から5日後の夜。
その人は私の目の前に現れた。
「やあ、久しぶり。まあ俺にとっては久しぶりじゃないけど」
「な、なんで…私、あのこと誰にも話してません!」
あの日と変わらぬ笑顔で私の前に立つその人はくすくすとおかしそうに笑った。
「うん。知ってるよ。ずーっと、見てたから」
「え……?」
「本当に約束守ってくれるかなーって見ててさ。そうしたらちょっと興味が湧いてきちゃってね」
くすくすと笑って、あの夜と同じ場所を今度は掌でするりと撫でる。
「背丈も歳も職場も住所も家族も、それから癖もコンプレックスも友好関係も…もちろん名前も。ね、」
あってるよね、と笑う彼に頷くことも首を振る事もできない。
そもそも疑問形なんてものではなく確認するような口調だ。
「は約束を守れる子みたいだから、地球人だけど特別に俺の傍で働かせてあげるよ」
丁度ひとつ席が空いたし。知ってるよね、と言ってまた笑顔を向ける。
「い、言ってる意味が…分からないんですけど…っ。私には」
「あんたこそ言ってる意味が分からないよ。これはすべて決定事項だ」
「そんな…そんなのおかしいです、私はあなたの事なんて何も知らないし……失礼します!」
踵を返して弾かれたように走り出す。
何処へ向かうかなんて考えない、とにかく、ここから、あの人から離れなければ。
「…。俺の事は何も知らない、か」
行き交う人々を避けて街を走り抜ける。
さすがに繁華街なら手出しはできないだろう。
重くなってきた足を休ませようと壁に手をついた時、ギリッと痛みが手首に走った。
「みーつけた」
叫ぶよりも先に、その人は私の手を掴んだままぐっと足に力を入れて地を蹴る。
今までに感じたことのない浮遊感と共に、私ごと屋根の上へ登り、そのままどんどん上へと飛ぶように上がっていく。
そして辿りつく、廃ビルの屋上。
ダァンッとコンクリートの壁に押し付けられ、背中に痛みが走る。
「いっ……」
「ああ、ごめんごめん。やっぱり地球人への力加減は難しいねえ」
そう言いながらも手は離してくれない。
「それとさっき言われて思ったんだ。俺だけが知ってるっていうのもなかなか寂しいものなんだってね」
さっきというと、あなたの事なんて知らないと言ったことだろうか。
「俺は神威。夜兎族で、春雨第七師団の団長。そしての上司だよ」
「っ、だから私はあなたの所になんて行かないって」
ドオンッという音と共に私の顔のすぐ横から煙が立ち上る。
視界には今まで彼の腰に添えられていた手が、ピントの合わないほど近い位置に見える。
「決定事項って、言ったよね。何度も言わせないでくれるかな」
すっと手を戻した彼…神威の手についたコンクリートの破片。
「そんなに言うなら俺も実力行使でいくよ」
今までのは実力行使じゃなかったの、なんて聞ける雰囲気ではない。
神威は手を離してビルの屋上を囲むフェンスに近寄る。
そしてくるりと笑顔で振り返り、口を開く。
「最初はどうしようか。職場?それとも友達の家?でもやっぱり、自宅がいいかな」
「は…?」
「俺の傍以外に居場所があるから、躊躇ってるんだろ?だったら他のところを全部ツブしてやるよ」
どうしようかな、と楽しそうに街を見下ろす神威。
ああそうだ、私はひとつだけ知っている。
彼が躊躇うことなく人を殺せること。
「だ、だめ、絶対だめ…!」
この人は本気でやってしまう、私の居場所を、大切な人をころしてしまう。
ぎゅっと縋るように神威の背中にしがみつく。
「あっははは、嬉しいよ、の方からそんな風にしてくれるなんて」
ぽんぽんと頭を撫でられ、ぎゅっと正面から抱きしめられる。
それはさっきコンクリートを素手で破壊したとは思えないような優しい手つきだった。
「心は決まったんだね」
「…選択肢なんて、ないくせに」
顔を背けると同時につうっと涙が一粒頬を滑った。
同時に息をのむ音がして、視線だけを目の前の男に戻す。
おそらく、この時初めて私は彼の瞳を見た。
月明かりに照らされて怖いほど綺麗で吸いこまれてしまいそうな、瑠璃色の瞳。
「ふっ、ははっ、笑ってる顔も怒ってる顔も不貞腐れてる顔もぼーっとしてる顔も見てたけど…泣いてる顔は初めてだ」
ごくりと生唾を飲み込む音と共に神威の喉が上下する。
「これからもっといっぱい、を教えて。俺の事も…たっぷり教えてあげるから」
親指で流れた涙の痕をなぞって楽しそうに笑う。
どうして、どこで何を間違えたのだろう。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
噛みつくように重ねられた唇には何の意味があるのだろう。
契約か束縛か、それとも愛情なのか。
「これからもよろしくね、」
好奇心が滅ぼしたもの
(怖がらなくていいよ。殺すんじゃない、愛してあげるんだから。ね。)
あとがき
「神威のヤンデレ夢」というリクエストでした。リクエストありがとうございました!
こういう話は背筋がゾクッとしてこそだと思っているので、気合い入れてヤンデレさせてみました。
更新時期は冬に近づいてますが、ちょっぴりゾワッとして頂けたら幸いです!
2012/10/20