神話科の先生に頼まれた仕事を片付けて廊下を歩く。
普通女子生徒にクラス人数分のノート集めて職員室まで持って来いなんて言う?
と不満に思っていたのが顔に出ていたのだろうか、先生からこの前授業中寝てただろという指摘をうけた。
ノート運びくらい安いモンです先生!と誤魔化して逃げてきた。補修は勘弁である。
教室に置いたままの鞄を取りに行かねば、と思っているとどこからかピアノの音が聞こえてきた。
この学校でこの時間にピアノを弾いている人なんて一人しか知らない。
教室へ向かおうとしていた足をUターンさせて音楽室の扉の前に張り付く。
扉越しではやはり音が濁ってしまうけれど、私にはここが丁度良い気がする。
扉の前に座りこんで、頭を扉に預ける。
ふっと力を抜くと、丁度曲が終わった。
次はどんなのだろうなんて思いながら待っていると扉の向こうからコンコンとノック音がした。
「そこにいるの、さんでしょう」
「……颯斗ってさあ、透視能力まであるの?」
座ったままの体勢で扉をカラカラと開ける。
私とほぼ同じ視点の高さになるようしゃがみ込んだ颯斗が、そんなわけないですよと言って笑った。
「こんな時間まで残っている生徒は貴女くらいですし、鞄がまだ教室にありましたから」
探偵にでもなれるのではないだろうか、なんて心の中で呟く。
「ま、まあ私の事は気にしなくていいからさ!もう一曲お願いしたいなーなんて」
さっきは途中からだったし、と笑うと颯斗は少し困ったように笑って手を差し出す。
「あまり、期待しないでくださいよ?…中へどうぞ」
「……ううん、ここがいいの」
そっと扉に手を添える。扉越しくらいじゃないと、颯斗の音楽は綺麗すぎて、苦しくなりそうだ。
「そこだと余計に気になるんですよ、それに廊下は冷えます。女性は体を冷やしてはいけませんよ」
そう言って私の手を握る颯斗の手も、少しひんやりとしていた。
結局音楽室に入ってしまった。
生で、目の前で颯斗のピアノを聞くのは初めてで、不思議な緊張感がある。
「なんで僕よりさんの方が緊張してるんですか。うつるんでやめてください」
「さっきから意外と注文多いよね!?」
教室入れだの緊張するなだの、あ、いや、すいません私が悪かったですその微笑み怖いです。
では、と言って深呼吸をひとつ。
適当に引っ張ってきたイスを置くと、私の視界はピアノと颯斗の横顔、そして夕陽で一杯になった。
颯斗の綺麗な指から流れる旋律。
今までに聞いた事のない曲だけど、するりと心の中まで響いてくる。
ずっと扉越しや校舎の外、遠くから聞いていた音は今、ダイレクトに私の中へと流れ込んでくる。
膝の上に乗せた手をぎゅっと握りしめる。
息をするのも忘れそうなくらい、その曲は、その音は、その旋律は、颯斗の表情は、――――。
「……、久しぶりに弾いたんですけど、案外まだ覚えてるもので……っ!」
楽譜からこちらに顔を向けた颯斗の目が驚いたように見開かれる。
どうしたの、と出そうとした声はなぜか喉で絡まって出なかった。
「さん、どうして…どうして泣いているんですか…」
「な、いて?」
颯斗が何を言っているのか分からなくて首を傾げると、ぽたりと温かいものが頬を滑った。
流れたそれがぽたりと手に落ちる寸前、イスを跳ね飛ばさんほどの勢いで私の前に膝をついた颯斗の手がそれを拭った。
そのまま頬を撫で、目元を親指がそっとなぞるように滑り、熱くなった目頭にそっと唇をおとされる。
「綺麗だったから」
「え?」
もう流れるものは無いのに、颯斗の手は私の頬と目じりを撫でている。
「颯斗のピアノが…颯斗の奏でる音楽が、綺麗で、切なくて儚くて…すごく優しかったから」
「え、えと…とんだ褒め殺しですね…」
「だって本当だもん。今も耳に頭に張り付いて離れない、優しい音」
颯斗の綺麗な指から紡がれる音は、音楽はとてもとても綺麗で、苦しい。
「好きだよ」
「…っ、え」
頬を撫でていた颯斗の手が私の肩を撫で、ずるずると下がっていく。
そのまま床に膝をついて私の顔を見上げるような体勢で、ゆるく握られた手を握り返す。
「私、颯斗のピアノが好き」
「あ、ああ…そっちですか」
何を思ったのか少し眉を下げた颯斗と視線を合わせるべく、私もイスから降りる。
そのままぎゅっと颯斗の首に腕を回す。
「わ、あの、さんっ」
バランスを崩して私に倒れ込む颯斗の上擦った声が耳元で聞こえる。
「そんなに苦しそうな顔で弾かないで」
ヒュッと息をのむ音が聞こえた。
「颯斗は颯斗が幸せになるために、笑顔になるためにピアノを弾けばいいんだよ」
誰かと比べることなんていらないから。
「…努力、してみます」
ぎゅっと颯斗の腕が私の背に回される。
「すぐにとはいかないと思いますが…今度は、さんを泣かせたくないですしね」
「えっ」
思わず手を颯斗の肩について体を離す。
でも彼はにこりと笑って私の腰あたりに腕を回したまま。離れきれない。
「ちょ、そ、それは早く忘れて!!」
「嫌です」
にこりと笑う颯斗はとても爽やかで楽しそうで、でも、やっぱり少しだけ苦しそうだった。
「これからは、扉の前じゃなくて音楽室に入ってきてくださいね」
「もう泣きたくないです。泣かないです」
「そうじゃありませんよ」
くすりと声を出して笑って、颯斗はもう一度私の目元を撫でる。
「あなたに、さんに笑ってもらうために弾きますから」
颯斗の指が、爪が目元をかすめていく。
「そのためには、本人が傍にいてくれないと練習になりません」
その言葉に、私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「だからまた僕に…ピアノ練習に付き合って貰えますか」
「も、もちろん!お安いご用だよ」
君の音色
(あなたのために、あなただけのために僕はこの音色を届けましょう。特別な、僕の思いの音色を。)
あとがき
颯斗のピアノ聞いてると寝そうになります。
2012/10/28