大騒ぎとなった文化祭が終わり、12月を迎えたカレンダーが風に頼りなく揺れている。
国語準備室にぶらさがったカレンダーの18日に、バツ印をつけた。
一日が終わり、帰る準備をして準備室の扉に鍵をかける。
「さっむ」
ストーブを持ち込んでいた準備室内は暖かかったが、廊下は寒い。全館暖房にしようぜ。
そろそろ受験シーズンということもあり、授業が終わって空が暗くなった今もまだ生徒が残っている。
図書室辺りはまだ賑っているんだろう。
うちのクラスの連中は揃ってさっさと帰ったけどな。
「…あー、くそさみぃ」
それしか言葉が出てこない。しょうがねーだろ、寒いんだから。
あれからは平和な毎日だった。
朝学校にきて、1限目が国語のときは自習にして、昼寝して、てきとーにテストとか作って採点して、帰る。
確実になにかが足りなかった。
「……」
それがなんだ。
先月、先々月あたりがおかしかっただけで、これが普通なんだ。普通に戻っただけだ。
物足りないとかそういうわけじゃない。そうじゃねえだろ、なあ。
だって、そうじゃねーと、俺は、あの追いかけっこの日々を楽しいと思っていたことになる。
「んなわけあってたまるかよ」
はあ、と吐いたため息が白くて今が冬だと言う事を再確認した。
閉じまり当番じゃなくてよかった、と思いながら昇降口へと降りていく。
職員玄関は反対側だが、なぜか足がそっちへと向いていた。
生徒の下駄箱の前で立ち止まる。
きれいに揃ったものから、片足飛び出ているような状態のものまで上履きがしまい込まれている。
そりゃあそうだ。もう時間も遅い、残っている生徒なんていない。
「…え、っ」
思わず出た声は俺のものではない。
俺の横から聞こえた、女子生徒の声。
「…こんな時間までなにやってんの、」
出来る限り普通に、平坦に、いつもと同じトーンで言葉を紡ぐ。
「聞いてください、この私が!この時間まで!お勉強ですよ!!」
どーんと胸を張って返してきたも、いつも通りの調子だった。
「そりゃまあ、お疲れさん」
ゆっくりと向き合うかたちになるよう、体の向きを変える。
「それにしてもなんでこんな時間まで。期末テスト、赤点だったのか?」
「ちょっとなに恐ろしい事言ってるんですか。違いますよ、あれです、受験勉強です!」
防寒用のコートの裾をひっぱりながらは言う。
「そろそろ勉強ちゃんとしなくちゃなーって思って…。しばらく先生絶ちしてたんですけど、まさかここで会えるとは!」
「なにその俺絶ちって」
「先生に会いに行っちゃうと、それで頭が一杯になって何も入らなくなるので規制してました」
俺はウイルスか何かか、と思いつつもが前となんら変わらぬ思考であったことに安心した。
…安心、した?
「あーでもほんと嬉しい!久しぶりに会った気分ですもん」
「…ほぼ毎日会ってんだろ」
授業ではちゃんと見かけていた。
だから風邪を疑う事はなかったが、違和感…いや、不足感があったのだ。
「名前」
「あ?」
「久しぶりに、呼んでもらえて嬉しいです」
名前っていうか名字ですけど、とは笑う。
「先生って授業中もとくに指名しませんから、なかなか呼んでもらうチャンスって無いんですよ」
「そういやそうだな」
めんどくせーし。
「だから、すごく嬉しい。私、先生の声も大好きです。…ってうわ、なんか恥ずかしい!」
今更だろうと思いながら、両手で顔を隠すように覆って目をそらすをじっと見つめた。
「お前は、あんまり呼ばねーよな」
「…?」
言っている意味がわからないというようには首を傾げる。
「俺の名前、呼ばねーだろ。『先生』とは呼ぶけどよ」
は、何言ってんの、俺。
「ほら、うちのクラスの奴らなんて銀ちゃんだの銀八だの、先生って呼ばれることの方が少ないっつーのに」
どことなく言い訳のようになった気がするが、そういうことだ。
こいつは遠慮が無いようで確実に一本何か線が敷かれている気がする。
「…それは…」
しばらくの沈黙の後、は顔を俯かせたまま消えそうな声で何かを呟いた。
「いやさすがに聞こえねーから。ほら言っちまえって」
少し屈んで視線の高さを合わせてやると、はびくっと体を揺らして一歩後ろへ下がった。
「あの…その、て、て、照れるんです!!!」
「……はあ」
俺から出た声は溜息というより、あっそうなの、くらいのトーンの声だった。
「だってだって、名前ですよ!?名字じゃなくて、名前なんて呼べません!照れる!!」
「お前普段名前呼ぶよりすげーことしてたじゃん。追っかけまわしてたじゃん」
「それとこれとはレベルが違うんですよ!」
「名前の方がレベル低くね?」
「私の中では高い方なんです!」
それに続いて先生のばか!という罵倒が一緒に飛んできた。ひでぇや。
「それに、名前なんて呼んじゃったら、ほんとにもう抑えられなくなりそうで」
「抑えてたの?あれで?」
「気持ちの問題です!」
弁当作って毎日昼に押しかけてきていたあれより、名前の方がレベルが上だなんて俺には理解できない。
まああの弁当は神楽が食べていたらしいが。
毎日毎日俺に感想を言ってきていた。そして、いい加減食べてやれ、とも。
「…先生こそ、ここのところどうして私に構ってくれるんですか」
「………」
その問いは、俺も自分に問いたいものだった。
「ずっとそっけなくしてくれていたから、私は先生を追いかけていられたのに」
ぎゅっとは両手を握りしめて言葉を続ける。
「このまま卒業まで幸せな片恋でいつづけられたのに」
声が、握りしめた手が、震える。
「期待、したくなっちゃうじゃないですか」
その泣きそうな笑顔に、俺はなんて答えてやったらいいのか分からなかった。
仮にも国語教師だっつーのに笑っちまう。
「…ほら、ね、困るでしょう?だから、色々抑えてたんですよ」
その場から動けずにいる俺を通り越し、は手早く靴を履き替えて昇降口に立った。
「先生のばーか。だいすき」
それだけ言い残しては振り返ることなく学校を出て行った。
残された俺はその場に立ちつくしたまま、何もできない自分と、もやもやした気持ちに困惑していた。
「…どうすりゃいいんだよ」
邪魔をしているのは何だ。
俺のプライドか、教師と生徒という立場か、それとも神様か。
来週半ばには終業式がある。
もうすぐ、冬休みだ。
一定距離
(追いかけてくるお前から逃げるのをやめたら、今度はお前が逃げちまうんだろ?どうしろってんだ。)
2016/01/09